実は心霊スポット!? 京都の鴨川に架かる三条大橋や三条河原の怖い話や噂とは?
みなさん、こんにちは。千年鯨です。
今回記すのは京都の有名な川、鴨川に架かる三条大橋やその周りの三条河原についてです。
鴨川って、のんびりと過ごすのに良いところなのですが、実は三条大橋と三条河原には心霊スポットという噂があるのです。
これから三条大橋と三条河原に伝わる怖い話や噂についてご紹介します。
京都府京都市『三条大橋』と『三条河原』の基本情報
三条大橋は京都市を流れる鴨川に架かっている大きな橋です。
三条大橋の付近が三条河原です。
三条大橋及び三条河原にアクセスするには以下の通りの方法があります。
電車は以下の通りです。
https://www.irasutoya.com/
京阪本線・鴨東線 | 三条駅下車すぐ |
京都市営地下鉄・東西線 | 三条京阪駅下車すぐ |
バスは以下の通りです。
https://www.ac-illust.com/
京都市営バス | 三条京阪前 下車すぐ 河原町三条 下車徒歩約3分 |
京都バス | 三条京阪前 下車すぐ 河原町三条 下車徒歩約3分 |
京阪バス | 三条京阪 下車すぐ 河原町三条 下車徒歩約3分 |
三条大橋及び三条河原の気になる歴史とは?
かつては東海度五十三次の西の起点として交通の面では重要な場所として注目されていました。
これから三条大橋がつくられた経緯や三条河原の歴史について詳しくご紹介します。
三条大橋の歴史
三条大橋が最初に架けられたのは室町時代と言われており、当時は簡易なものだったとされています。
その後天正18年には豊臣秀吉の命により、本格的な橋こと石柱の橋として改造されました。
東海道や中山道の西の起点として交通上の要である三条大橋は災害によって流されたことが度々ありましたが、幕府が管理する公儀橋としてその都度即座に修復されたとのことです。
東海道中膝栗毛の聖地
東海道中膝栗毛とは江戸時代、十返舎 一九によって作られた物語です。
弥次さんと喜多さんの二人が江戸からお伊勢参りに出かけ、大阪や京都などに足を運んで江戸に戻るという旅の物語です。
現代に例えるとしたら水曜どうでしょうの大泉洋と鈴井貴之のコンビみたいなものですね。
ここ、三条大橋付近は東海道中膝栗毛の聖地のひとつとして、弥次さんと喜多さんの銅像がありました。
どんな話かというと、
・伊勢詣での途中、大阪に行く前の出来事
・三条大橋の近くの宿屋に泊まった二人はハシゴを買わされる
とのことです。
高山彦九郎
三条大橋の近くにはこのように膝まづく姿の像があります。
その人物の名前は高山彦九郎、「寛政の三奇人」の一人であり群馬県太田市出身の武士です。
高山彦九郎とはどんな人物かというと、
・13歳の時に、「太平記」を読み、尊王思想に目覚める(自分のご先祖様が後醍醐天皇に仕えた新田氏であることを知る)
・諸国を行脚して尊王論を説き、吉田松陰などに影響を与えた
当時は幕府の力が強く尊王思想を抱くのは大変なことでした。
京都に入る際、高山彦九郎は京都御所に向かって銅像のように深々と拝んだそうです。
そのエピソードがのちの世に伝わり、昭和3年、昭和天皇のご大典(即位の大礼)の時に建てられました。
三条大橋及び三条河原の怖い話や噂とは?
穏やかな風景を眺めることができる三条大橋及び三条河原は心霊スポットであるという噂があります。
これから三条大橋及び三条河原が心霊スポットだと言われる理由や、怖い話や噂についてご紹介します。
三条大橋及び三条河原はいわくつき?
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三条大橋や三条河原は観光客や地元の方が憩いの場として過ごしています。
しかし、かつて三条河原は中世から近世にかけて処刑場として罪人が処刑され、さらし首の舞台となっていたのです。
また、室町時代には三条河原は〇体置き場として使われていました。
三条河原の他に、六条河原も同様に処刑場であり、規模は三条河原より大きかったそうです。
六条河原ではキリシタンの大量処刑が行われていたと言われています。
三条河原で処刑・晒し首にされた人物とは?
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処刑場として使われていた三条河原では歴史上の人物が処刑されました。
どんな人物が処刑されたのかは以下の通りです。
石川五右衛門 | 安土桃山時代の盗賊 | 子供と共に釜茹での刑に処された |
豊臣秀頼と妻子側室侍女39名 | 豊臣秀吉の甥 武家関白 | 豊臣秀吉により謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹後に三条河原に首が運ばれた 妻子側室侍女らが首の前で処刑される |
石田三成 | 安土桃山時代の武将 関ヶ原の戦いでは豊臣側 | 関ヶ原の戦いに敗れて捕らえられた後に六条河原で斬首刑に処される その後三条河原で晒し首にされる |
近藤勇 | 新撰組局長 | 1868年(慶応8年)4月25日 板橋刑場(東京)で刑に処される その後首が塩漬け状態で三条河原に運ばれ、晒し首にされた |
三条大橋の噂とは? 三条大橋の呪い?
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三条大橋や三条河原は古くから処刑場として使われていたのか、こんなうわさがあります。
三条大橋には呪いがあるとのことです。
深夜に三条大橋を渡ると不幸が訪れるという噂があると言われています。
実際に三条大橋や三条河原に行ってみた感想
さて、そういう歴史や噂がある三条大橋や三条河原に行ってみました。
穏やかな自然の風景を楽しめるところで特に怖いと思ったことはありませんでした。
ここが歴史的な重要な現場であったことを知ると、様々な苦しみや悲しみがあったんだなあと考えさせられますね。
今が穏やかで平和であることに感謝したものです。
三条大橋や三条河原は歴史的な重要な場所である
三条大橋や三条河原は東海道の西の起点で、交通の要という面もあれば、歴史上の人物が処刑されたという恐ろしい面もあることがわかりました。
以前、紹介した平の将門の首塚ですが、これも京都の鴨川に関係あることがわかりました。
平将門の首は京都の七条河原で晒され、そこから東京へと飛んで行ったという話があるみたいですね。
そう思うと、京都はいろいろとすごいことが起きていたんだなあと驚きました。
また、東海道には京都の他にも有名な処刑場があったとのことなので、そこもいつかは調べてみたいと思いました。
最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。